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■ ふるさと志津の風景(草津八大名所 栗太武士の拠点「青地城址」)
青地城は、鎌倉時代から室町時代にかけて、青地庄を中心に活躍した青地氏の居城です。青地氏は、近江源氏・佐々木氏の流れをくみ、六角氏の有力家臣として、また織田信長の近江入国後は、信長家臣団として天下統一に向け活躍しました。彼らの居城である青地城は、信楽山地からの丘陵の末端に作られた平山城で、周囲を堀や土塁で囲み、内部には三カ所の郭(くるわ)が設けられていました。
なお、城の周囲には、式内社小槻神社や無量寿寺、西方寺などの由緒ある寺社が残り、当地の歴史の古さを知ることができます。
この城址に明治9年に、「志津学校」が開校され、現在も今年で開校139年目を迎える志津小学校がクスノキの大樹に囲まれてそびえ建っています。
■ 保護樹木:青地町・志津小学校のクスノキ(3本)【平成17年3月1日草津市指定】
志津小学校の坂道を上がった校門前の道路沿いに並んでいるクスノキ3本が保護樹木です。これらのクスノキは、かつて旧青地城の堀の周囲を固めるために植えられたとされています。クスノキからは樟脳が取れ、腐りにくいため仏像や器具の材とされてきました。
保護樹木に指定された3本のクスノキについて、指定当時の記録として、「①クスノキ 樹高24m、幹周360cm、推定樹齢180年 ②クスノキ 樹高20m、幹周328cm、推定樹齢170年 ③クスノキ 樹高18m、幹周287cm、推定樹齢140年」と記されています。指定から10年近く経っている今では、さらに大きく成長し、学校はもとより、志津の誇り高きシンボルとして、志津の子どもたちや志津の地域を見守り続けてくれています。地域の宝として大切にし、次世代へ残していきたいものです。
■ そのクスノキの緑陰、城池を見下ろす高台に、「静里(せいり)先生の顕彰碑」が建てられています。杉浦重剛撰文の碑文の内容については、現地に「説明板」が設置されていますのでご覧ください。
ここでは草津市教育委員会発行の『生きるこころ 歩むすがた -ふるさと草津の人物ー』に掲載されている『未来のために ~滋賀に学校を 北川静里~』から、ふるさと志津の先人の業績や人となりを紹介します。
北川静里は、1841(天保12)年、現在の青地町に生まれました。子どものころから勉強が大好きで、おじいさんの歴史の話には遊びを忘れて耳をかたむけたといいます。
その後京都に出て、医学、歴史、博物学、儒学などを学びました。郷里に帰ってからは、医者をしながら、近所の子どもたちに勉強を教えました。
まもなく明治新政府が生まれました。近代的な国づくりのためには新しい教育が必要であると考えていた静里は、1871(明治4)年、県知事に小学校をつくることの必要性を訴える手紙を書きました。1872(明治5)年に学制が施行されましたが、当時の滋賀県には寺子屋が多く残り、小学校の開設は思うように進んでいませんでした。1875(明治8)年、静里34歳の時には、県の学務担任という仕事につきました。小学校をつくる仕事です。
静里は県下各地の村々を訪ねて、小学校をつくることの大切さを話して回りました。そして、小学校開設のための制度を整え、地域に合った学校の建設をすすめたのです。
そのかいあって翌年から県下の小学校も整いはじめ、静里は各学校の開校式にもしばしば出席しました。
また、学校の設置と共に子どもたちを教える先生が必要となってくると、1886(明治19)年、静里は草津小学校の近くに塾「修文館」を開き、人材の育成にあたりました。
このように郷土の教育に力を注いだ静里ですが、同時に多くの本を書いています。それは歴史、地理、伝記、湖魚図鑑、疏水工事記と多方面にわたり、静里のはばひろい知識をうかがわせるものです。
その生涯を教育と著述にささげた静里は、1902(明治35)年62歳で亡くなりました。その墓は、青地町の無量寿寺にあります。また、今でも地域の人は「静里先生」と慕い、志津小学校の校門前には顕彰碑が建てられています。彼の残した数多くの本は、「静里文庫」として草津市に寄贈されています。
(『生きるこころ 歩むすがた -ふるさと草津の人物ー』より引用)
以来、志津学区は教育に熱心な教育村の伝統を脈々と受け継いできています。教育振興会の設立をはじめとし、人が育ち、人を育てる地域として、まちづくり協議会の大事な課題につながっています。
※「学区紹介」のページは、今後徐々に充実させていきます。